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死にたがりの赤と漆黒の虚無
​DC
安室×赤井 赤井×ジン
age restrictions R-18

挿入を含む性行為の描写があります。

​一般的な少年漫画レベルの暴力/流血/死に関わる表現があります。

2017年9月27日
フローティングハート

黒の組織が事実上崩壊したあの事件から、既に3日が過ぎていた。
表だっては何事もなく、裏では誰も彼もが慌ただしい狂騒の渦中。
赤井自身、不眠不休で事後処理に追われていた。
組織のアジトも中心的なものはあらかた叩きつぶされたが、世界中に点在する彼らの拠点の全てを暴き出すにはまだ時間がかかるだろう。
ボスは当然として、そのほかの主だった幹部もさすがに手強く、何人かはあと一歩のところで取り逃がしていた。
ベルモット、キャンティ、コルン……そして、ジン。
ジンといつも一緒にいたはずのウォッカは、彼を守るため、囮になって……重傷を負ったはずだが、行方は分からないままだ。
赤井は、公安の降谷と共に逃げた彼らの捜索に当たっていた。
組織の情報を握る者として。
降谷が相棒として赤井を指名してきたのには少し驚いたが、組んでみれば、これほどやりやすい相手もなかった。
さらにうまいことに、降谷は赤井に協力的だった。
ジンが見つかれば、可能な限り逃がす努力をしようとさえ言った。
半ば以上は同情であろうそれを、赤井は笑って受け入れた。
それは、FBIと公安それぞれの要とも言えるふたりが結ぶには、ありえない密約だ。
もちろん、そのありえない申し出に、降谷が条件をつけるのを忘れるわけがなかった。
一つ目の条件は、赤井自身の持っている組織についての情報を、全て公安に引き渡すというもの。
勿論、赤井はあっさり「構わない」と答えた。
二つ目の条件は、狩り出した組織の残党は、まず公安が身柄を確保するというもの。
赤井が「わかっている」と答えれば、降谷は疑り深い目でこちらを見てきた。
三つ目の条件は、逃がした後は二度とジンに関わらないというもの。
これも、赤井は「仕方があるまい」と苦笑いで受け入れた。
四つ目の条件は、酷く個人的な内容だった。
無事にジンが彼らの前から逃げおおせた暁には、赤井は降谷のものになる。
承諾の証に赤井は彼の前で跪き、手の甲に騎士のような口づけをした。
「なんなら、今、この場から」
交渉は成立。
そうして今、彼らは何食わぬ顔で組織の残党狩りに精を出している。

***

 

ハイウェイを飛ばす車中で、助手席の降谷が運転席にいる赤井に、SAの存在を告げた。
「あなた、少し休んだらどうです。酷い顔だ」
「大丈夫ですよ。このくらい」
ハンドルを握る手に力が入る。
赤井は今、この席を降谷に譲る気はなかった。
「降谷さんこそ、丸3日寝ていないじゃないですか。ホテルまでまだ時間がかかりますから、あなたは寝ていてください」
「いや、しかし……」
「助手席で寝るなと言うほど狭量な男じゃないつもりです。仕事に一区切りついたとはいえ、明日以降もハードスケジュールには変わりません。寝られるときに寝ていた方がいいですよ」
丸3日降谷が眠っていないことを知っている時点で条件は赤井も同じなのだが、それについては敢えて忘れたふりをして、言った。
対する降谷の返事は、斜め上からやってきた。
「昨日から言おうと思ってたんですが」
「はい」
「その敬語、やめてくれませんか。気持ち悪いんで」
了解の印に赤井は口の端に笑みを載せる。
「着いたら起こしてやるから、寝ていろ」
赤井の携帯に、都内某所を指定して『今すぐ来い』と連絡が入ったのは、廃倉庫のひとつに潜んでいた連中を制圧し、公安の連中に身柄を引き渡した直後だった。
行方をくらましたはずのベルモットからだった。
彼女がどうやって赤井のアドレスを知ったかはわからない。
組織を潰した自分達への復讐を疑わないわけではなかったが、それならば、今まで何度だってその機会はあったはずだ。
助手席から寝息が聞こえ始めたのを確認して、アクセルを踏み込む。
目的地につくまで、大人しく眠っていてくれればいいが。
そんなことを思いながら。
人気のない廃ビルに足を踏み入れると、埃と黴の臭いが鼻をついた。
そこに混じる、血の臭い。
知覚をそこに集中させ、猟犬のようにその気配をたどっていく。
廊下の突き当たりにある部屋の扉を迷いなく押し開けると、ベルモットが彼を待っていた。
部屋にいるのは、彼女1人。
ということは、この血の臭いはベルモットのものか。
彼女は腕の中に布で幾重にも包まれた大きな荷物を抱えている。
武器のようにはとても見えないが……、
「なんだ、それは」
距離を保ったまま訪ねると、クスリと笑ってこちらに歩いてきた。
「確かめてみたら……?」
手を伸ばせば触れられる距離まで来たベルモットは、包みの端をするすると解いていく。
はらり、とこぼれ落ちた銀色の糸のようなものが何か、最初は理解できなかったが。
「子供……?」
銀髪に白い肌。
上質の洋服を着ているようだ。
どこかの企業の社長の息子でも誘拐してきたのだろうか。
だが、だとしたら、彼女が自分を呼び出した意味は……?
赤井の疑問に、ベルモットが、もう一度クスリと笑う。
「本当にわからないの? 愛が足りないわね」
「なに?」
「この子、ジンよ」
赤井の脳は、言われたことを飲み込むのに、数秒を要した。
「ジン、だと?」
人間が幼児化するなどあり得ない、と、少し前までなら笑い飛ばしたはずのことが、今は現実味を帯びてのしかかってくる。
江戸川コナンこと工藤新一、そして灰原哀こと宮野志保。
自分の生活の深くに食い込んでいた2人が、自らの身で証明したのだ。
彼らは今元の姿に戻り、FBIの保護下にいる。
なにより、
「可愛い顔してるでしょ」
そう言いながらベルモットが撫でる傷痕が、これがたちの悪い冗談などではないと告げていた。
「……これは、悪夢か?」
「いいえ。現実よ」
「だが、何故、」
「説明している時間はないの。さっさと受け入れてちょうだい」
ベルモットが、赤井の胸に、眠っている子どもジンを押しつける。
「この子を連れて逃げて。出来るだけ遠くへ」
言い終わるのを待たず、彼女の身体が膝から崩れ落ちる。
「頼んだわよ、ライ。私は、もう……」
再び顔まで布を巻きつけてただの荷物のように偽装したジンを抱えて赤井が車に戻ると、降谷は既に目を覚ましていた。
「ここはどこだ」
問われ、今いる場所の名を口にすると、苛立つような声が返る。
「そんなことを聞いてるんじゃない! 何故僕らがここにいるのかと……」
喚く降谷の唇に人差し指を当てて、
「しっ」
と鋭く息を吐くと、流石になにかあるとは感づいたようで、彼は大人しく口を閉じる。
「静かにしてくれないか。寝た子を起こしたくないんだ」
「……なんのことだ……?」
「ジンだ」
「まさか!」
降谷は先ほどの制止も忘れて叫んだが、赤井がジンの顔を隠す布を捲ると息を呑んだ。
赤井の手で彼の着せられている服がはだけさせられると、降谷もそれがジンだと認めざるを得なくなる。
バーボンであったころに何度となく見た幾つもの傷が、そっくりそのまま幼子の肌に残っていたからだ。
それだけではない。
まだ新しい凄惨な拷問の痕が、至る所で彼の白い肌を赤黒く彩っていた。
「……う……」
寝起きに見るには悪趣味が過ぎる。
久々に嘔吐きそうだ。
そんな降谷の様子を見て、赤井は、ジンの肌を撫でる手を止めた。
服をきっちりと着せ直し、元通り布で包んで、大切そうに抱きなおす。
「降谷君。悪いが、運転を代わってもらえないだろうか」
言われるまでもなかった。
組織の連中に尾けられている気配はなかったが、こちらの手にはジンがいるのだ。
運転中、もし銃撃戦にでもなれば、赤井の方が役に立つに決まっている。
チッ。
舌打ちと共に身体をスライドさせ、運転席へ。
「早く乗ってください。出しますよ!」
言う頃には既に、彼の足はアクセルを踏み抜く用意が出来ている。
赤井がシートベルトを締めるのを待つのですらもどかしかった。

***

 

あれから、数時間。
途中何度も車を乗り換えて、今現在彼らがいるのは、もともと泊まる予定だったホテルの一室だった。
下手に計画を変えると、誰に何を疑われるかしれたものではないからだ。
ジンはあの後結局一度も目を覚まさずに赤井の腕の中で大人しく眠っていたし、今はダブルベッドの中央に寝かされて、すぅすぅと柔らかい寝息を立てている。
勿論、ここに来る前に、彼が武器等を所持していないかどうかはチェック済みだ。
ジンが赤井の服を掴んで放さないので、降谷と赤井は仕方なく彼を挟む位置でそれぞれベッドに腰掛けていた。
「さあ、状況を説明してください!」
ぐっと身を乗り出してきた降谷が、赤井の襟首を掴む。
眠っているジンへの配慮を少しは思い出したらしく、鋭さを保ちつつも潜めた声。
こんな声も出せるのか、と場違いな感想しか出てこないのは、赤井自身ことの成り行きがわかっていないからだ。
「待て。俺も話が見えていないんだ」
耳元に囁き返す。
自分の声が彼の性感を刺激することは分かっていたが、そんなことは言っていられない。
ジンが目を覚ませば、面倒が増えるのは明白だ。
ことさら甘く囁いたつもりはなかったが、降谷の耳がサッと赤く染まり、彼はそれを隠すかのように声を高めた。
「どういうことです。あなたがこの子どもをジンだと言い切ったんでしょう!?」
赤井は眉をひそめたが、ジンの眠りはよほど深いようで、ひとまずは安堵する。
ジンの柔らかい髪を撫でながら、
「静かにしてくれないか」
と牽制すると、降谷は珍しくしおらしく頷いた。
「すみません……」
この男は、こういうところが妙に可愛い。
などと逸れそうになる思考をおさえ、赤井は、推測できる範囲で今の事態を降谷に説明しようと試みた。
「おそらくだが……コナン君達と同じ薬を飲んだんだろう」
「APTX-4869……ですか」
「誰かに飲まされたのか、ジンが自分で飲んだのかはわからない。だが……ジンは死ぬつもりだったのかもしれん」
「……あの傷、」
「いや。ジンは、あの程度の拷問に音をあげる男じゃない」
「だったら……」
「可能性の話だ。だが、もしジンが自ら死を選ぶとすれば……」
赤井の途切れさせた言葉の続きを、よせばいいのに、降谷が補完する。
「あの男に命じられた時……か」
2人の男の中に同時にどす黒い感情が沸き上がる。
顔を見合わせて互いに頷きあった時、不意に、赤井の携帯が震えた。
降谷が出るようにと促したので、電話を取る。
「……もしもし、俺だ」
『私よ、ライ』
「ベルモット。生きていたのか」
『なんとかね……』
呟いた名に、降谷の手が伸びてくる。
スピーカー機能をオンにしろ、とジェスチャーでしめされ、赤井はそれに従った。
既に降谷と行動していることはバレているのだから、構わないだろう。
「公安からは?」
『あら、やっぱりアレはあなたの差し金だったのね。お生憎様だけど、あんな下っ端連中、勿論綺麗にまいてやったわよ』
「ホォー、あの怪我で。大した女だ」
そう言いながら横目で降谷の顔色を伺うと、苦虫をかみ潰したような表情になっている。
赤井は彼につい笑いかけそうになって、誤魔化すようにジンの髪を撫でた。
指通りの良すぎる髪は、指に絡まずにするすると逃げていく。
『ところで、ジンは、まだ眠っているかしら?』
「ああ」
『もう気づいているとは思うけど、ジンはあの薬を飲んで幼児化したの』
「APTX……?」
『ええ、そうよ。あの方に、ジンが組織を売ったと思われたのが運の尽きね。そう進言したバカがいたのよ。あなた達に名前は言えないけれど。でも、それ自体はあの子の自業自得だわ……。庇ってあげる余地なんてなかった』
「俺は、その糞野郎を今すぐ地獄の釜に沈めたい気分だ」
『あら、あなたたちにだって充分責任はあるはずよ、ライ。あなたとバーボンがジンにご執心だったのを、あの方が知らないと思って?』
「僕は別に、」
『でもね、あの子を責めている余裕なんて、我々にはないの。ボスがあれではいけないわ』
「だからジンを連れ去ったと?」
『そう』
「組織に追われてまで?」
『本音を言うと、私、あの子のこと結構気に入っていたのよ。でも、あそこからジンを連れ出すには、あの子の運と生命力に賭けるしかなかった……。危険な賭だったのよ。本当にひどい仕打ちを受けていたから。あの子に体力なんてもうほとんど残ってなかったはず。それでもあの子は……まだ、生きている』
「ああ」
『任せたわよ、ライ。あなた1人じゃ少し頼りないけれど、バーボンも一緒なら……あなたたちなら、ジンを守れる』
「冗談じゃない! 僕らはあなたたちの敵だ!」
『そうね、バーボン。でも、ライは……? ライはいつだってジンの宿敵……でしょう?』
「ああ」
「だとしても! 肝心のジンがこの姿では、1人で逃がすことも出来ないじゃないですか!」
『……ジンが飲んだのは、APTX-5000。成分は4869に近いはずだけれど、他の副作用が出るかもしれないわ。ジンの服のポケットにカプセルが入っていたでしょう? シェリーちゃんが近くにいるなら、彼女に解析を……、きっと……』
電話は、そこで途切れた。
電波が切れたのか、彼女が切ったのか、誰かに切られたのか。
黙り込んだ携帯電話に何度呼びかけてみても、答えが返ることはなかった。

 

***


「ん……、ぅ……」
ジンが目を覚ましたのは夜明け前で、赤井も降谷もそろそろ眠ろうかと思っていた矢先のことだった。
2人とも人並み外れた体力の持ち主だとはいえ、不眠不休は仕事の効率を下げる。
「赤井。あなた、先に眠っていいですよ」
と降谷が赤井に仮眠を譲ったのは10分ほど前のこと。
2時間もすれば彼は起きてきて、降谷にベッドを明け渡す、はずだったのだが。
「ここ、どこ……?」
キョトンとした幼い声に、赤井は、ついさっきシーツに沈めたばかりの身体をむくりと起き上がらせる。
「起きたか、ジン」
愛おしげな呼びかけに、だが、ベッドの上の幼子が返したのは、予想外の反応だった。
聞き慣れない言葉を耳にしたように目をぱちくりとさせて、
「じん……?」
問い返すものだから、大人2人の目が点になる。
「お前の名だろう? ジン」
「……じん……」
不思議なもののようにその名を口の中でもてあまし、ジンは手近なシーツを身体に巻き付けた。
膝を抱えて座り、頭を庇う姿勢をとるのは、無意識なのだろうか。
だとすれば、物理的な距離を詰めるのは、この場では禁物だろう。
「ジン」
どう手を伸ばしても触れられない場所まで身を引き、再び声をかけてやると、ジンはやっと目を上げて赤井を見る。
そのどこか媚びるような上目遣いがたまらなく胸を締め付けたが、それは見せないように、赤井は務めて冷静に問うた。
「ジン。俺のことは覚えているか?」
「…………?」
「記憶が、ないのか」
APTX-4869には、記憶障害の副作用はなかったはずだ。
現に江戸川コナンも灰原哀も……ふたを開けてみれば工藤新一と宮野志保だったわけだが……記憶は元の年齢の時のままそっくり残されていた。
では、これが、ベルモットの言った他の副作用だろうか。
それとも、拷問によるものなのだろうか。
だとすれば、いったいどんな拷問を受けてきたというのか。
ジンほどの人間が記憶を失うだけの拷問……。
赤井はともかく、降谷には、そんなもの、到底想像できなかった。
「赤井秀一だ。本当に覚えてないのか」
距離を保ったまま赤井が訊けば、ジンの方から近づいてくる。
一跳びで離れられるギリギリの距離で、ジンは、赤井の顔を覗き込んだ。
「あかい、しゅういち……」
「そうだ」
赤井の目が、ジンとの距離を測るように動く。
今の距離が、ジンのセイフティ・ゾーン。
ならば不用意にそこに踏み込まないように、赤井は細心の注意を払うのだろう。
ジンが彼に心を許すまでは。

赤井から離れたジンは、今度は降谷の前にやってきていた。
今目の前にいる大人2人が自分に手出しをしてこないことをなんとなく悟ってきたのか、さっきよりも少しだけ距離が近い。
視界の端で赤井が僅かに眉を吊り上げているのが見えたが、これは降谷のせいではなかった。
子供相手に嫉妬など、赤井も案外大人げない。
「僕は……安室です。ジン、僕のことも忘れてしまったんですか?」
どの名を名乗ろうかと束の間迷い、一番無難なものを選ぶ。
「あむろ……」
「はい」
「……あむ、ろ……」
「なんですか? ジン」
なにか言いたそうだが、どうしたのだろうか。
何時間も眠っていたのだから、眠いというわけではないだろうし、かといって(ジンにとっては)見ず知らずの大人にプライベートを話すはずもないし……、
「ジン?」
首をかしげてお手上げだと示してみせると、
「んー……」
と唸りながら、腹を撫でる。
咄嗟に傷が痛むのか、と思ったが、すぐに別の可能性に思い至った。
彼らと出会う前からジンがあの状態だったとするなら、そちらの推測の方が正しい気がする。
「ああ、お腹が空いたんですね?」
と試しに問えば、ジンは無言で頷いた。
「ジン、口の中、切れてませんか? 内臓の痛みなんかは? 柔らかいものの方がいいですか? もう夜中ですし重くない方が……」
降谷の矢継ぎ早の質問に、少し後ずさる、ジン。
途端、こちらをじっと見ていた赤井が動いた。
ジンを怖がらせるなと言うことだろう。
彼はそのままベッドを降りて、椅子の背にかけていた上着をとる。
「コンビニで何か買ってこよう」
そう言って出て行こうとする赤井を、服の裾を掴んでまで降谷が引き留めたのは、ジンが彼を追おうとしたからだった。
「駄目ですよ。それなら僕が行きます」
「何故だ?」
あからさまに不機嫌な赤井の声に、降谷は、肩をすくめた。
「あなたはジンのそばにいてあげてください。それに」
そこで一旦言葉を句切り、少し離れた位置からこちらの様子をうかがっているジンに目を向ける。
それから、彼はもう一度わざとらしく肩をすくめて見せた。
「あなたに任せると、病気の子にカツ丼買ってくるくらいのことしそうですから」

 

***


「えくれあ」
「しゅーくりーむ」
「ぷりん」
「えくれあ」
「しゅーくりーむ」
「ぷりん」
「えくれあ」
「しゅーくりーむ」
「ぷりん」
おいおい何の呪文だ。と言いたくなるが、目の前に並べられた菓子の中から好きなものを選べと言われたジンは、極めて真剣だった。
一々口に出しながら、『ど・れ・に・し・よ・う・か・な』と指を動かしている。
「君、食事を買いに行ったんじゃなかったのか」
「甘いものの方が食べやすいかと思って。安心してください、あなたのぶんもあるんで」
赤井の問いに、安室はしゃあしゃあと言う。
「冗談はよせ」
「冗談なんて。あの顔見れば分かるでしょう、ジンは甘党なんです」
実際、ジンの「えくれあしゅーくりーむぷりん」の呪文は、もう軽く10回を超えている。
いくらジンが可愛くても、苦手な甘味の名を連呼されるのは、そろそろ鬱陶しい。
「なんでもいいが、そろそろ決めてくれ」
赤井が促すと、ジンは、むぅう……と一度唸ってから、更に何度か迷った後、プリンを選んだ。
「赤井、あなたは?」
「いや、俺は……」
遠慮する、と言いたかったのだが。
「食べてくださいね。せっかく買ってきたので」
と降谷が言葉を重ねてくるので、これは自分へのささやかな嫌がらせも含んでいるらしいとみて、折れる。
どのみち、降谷が命じれば、赤井には断れない。
それならば、自分で選べる内にましな方を選んでおくのが得策だ。
「……シュークリームで」
「では、僕がエクレアですね」
袋に入っているのだから放って寄こせばいいものを、降谷はわざわざ赤井の分のシュークリームをベッドまで持ってきてくれる。
彼は、基本的に食べ物に関しては律儀だ。
特に、今のように多少の余裕があるときは。
「いただきます」
きちんと両手を合わせて食べ始めるのも、忘れない。
「あなたも食べたらどうです?」
彼に付き合って袋を破ったまではいいが、なかなか手をつけない赤井に、降谷はニコリと無邪気そうな笑みを浮かべて、楽しげに言った。
「好き嫌いはいけませんよ」
早々にプリンを食べ終わったらしいジンが寄ってきたので、1口囓っただけのシュークリームを差し出してみる。
「いるか?」
「……ん」
当然の権利だと言いたげに伸ばされた小さな左手にはシュークリームは大きすぎて、ついつい落とさないかと心配してしまった。
機嫌を損ねるか、と降谷のほうを伺ったが、どうやらそんなこともないようで、こういうことに関しては彼は寛容だな、などと、どうでもいいことを思う。
「ジン。両手で持って食べてください。落としてもかわりは買いませんからね」
降谷から母親のように注意されると、ジンは
「……ん……」
と頷いて、素直に従った。
カスタードクリームを鼻につけて、幸せそうにシュークリームを頬張る姿は、無邪気な子供そのものだ。
部屋の中を歩き回りながら食べるのに、降谷が何も言わないのは、ジンに聞かれたくない話があるからだった。
シュークリームを食べ終えればまた寄ってくるであろうジンを追い払うためか、エクレアは半分残したままで、降谷は赤井との距離を詰める。
身を落とし、声をひそめた。
「しばらくは、赤井、あなたがジンの面倒を見ていてください」
「君は?」
「僕1人でも仕事は出来ます。時間は待っちゃくれない。僕は、組織に繋がる全てを叩きつぶしたいんだ」
それは降谷の本心からの願いだった。
ずっと、そのために生きてきたようなものだ。
ため息をつく赤井も、そのことは知っているはずで。
「……物騒だな」
呟く声は、どこか白々しかった。
泣きそうだ、と、降谷は自分の胸にこみ上げてくる熱いものを自覚する。
声がうわずるのは、構わずに続けた。
「本当は、ジンのことも、あなたのことも」
この手で殺したいとずっと願っていた。
なのに、
「でも……僕は、知ってしまったから」
「何を?」
(あなたの優しさも、熱も、弱さも、僕は知ってしまったから)
「……言わせないでください」
あふれる涙が止まらないのは、赤井のせいだ。
八つ当たり気味に降谷は赤井を責めた。
そのくせ、彼の腕に縋り付いて、せめて泣き声だけは堪える。
近づいてきたジンを遠ざけるために、赤井がエクレアを部屋の向こうに放り投げるのを視界の端に見た。
食べ物を粗末にするなと言いたかったが、言えるわけもなく、ただ赤井の手がごく自然に髪を撫でていくのが、心地よかった。 

 

***


一昨日はトロピカルランドでキャラメル味のポップコーンを、昨日はベルツリータワー近くのカフェでチョコレートパフェを嬉々として平らげたジンは、今日も今日とて東都水族館のカフェテリアでメロンソーダとメイプルシロップたっぷりのホットケーキのセットを食べながらご満悦だ。
テイクアウト用のプラスチックナイフと同じくプラスチックのフォークを使わせているせいで、食べづらそうではある。
この待遇に、始めは不服そうな顔をしていたジンも、「だったらケーキはなしだ」という赤井の脅しに渋々屈した(支払いは赤井がするのだから、従わざるを得ない)。
実際目の前に甘味が置かれた途端に、そんな小さな不満は空の彼方に放り投げられてしまったようだが。
「しゅういち」
「なんだ?」
「かんらんしゃ、たのしかった」
「そうか」
赤井としては、彼が記憶を取り戻してくれることを期待してあちこち連れ回しているのだが、どうやら今日も徒労に終わりそうだ。
「すいぞくかんも、いく?」
「ジンが行きたいのなら。ああ、でも、もうすぐ安室君が帰ってくる時間だな」
流石に彼も疲れが隠せなくなってきているし、今日は本部への報告だけで早めに切り上げてくると言っていたから、なにかに巻き込まれていない限りはそろそろそんな時間のはずだ。
静かに寝かせておいてやりたい気もするが、降谷の帰宅(といっても場所はホテルなのだが)を楽しみにしているジンに拗ねられるのは辛い。
「どうする? 水族館、行くか?」
訊くと、ジンはあっさり首を左右に振った。
「かえる。ぷりん」
即答され、赤井は吹き出す。
まだ食べるのか、というかそんな認識しかされていない降谷が可哀想になってくるが、それでも声になってこぼれる笑いを止めるのは難しかった。

 

「あむろ」
眠っている降谷の顔を、ジンがベチベチと掌で容赦なく叩く。
「あむろ、おきて」
ベチベチ。
「あむろ」
ベチベチベチベチ。
「おきて」
ベチベチベチベチベチベチ。
無視しようとするたびにベチベチの回数が増えていくので、根負けした降谷が目を開けると、
「あむろ、ぷりん!」
ジンは、まるでその二つの単語がワンセットのように発声した。
「ただいまが先ですよ、ジン」
教育的指導を入れると、今度は、それが
「ただいま。あむろ、ぷりん!」
となる。
「手は洗ったんですか? うがいは?」
「した!」
ジンは元気に答えるが、降谷はジトリとした目を向けることを忘れなかった。
嘘をつきなさい、だったらその手についたベトベトしたものはなんですか、大体赤井、あなたもあなただ、そんな手のまま車に乗せるんじゃない、何を食べさせたのか知らないがおしぼりかなにかなかったのか、使ったのが僕の車だったら承知しない……、
言いたいことは山ほどあったが、
「プリンなら冷蔵庫に……」
と呆気なく睡魔に屈してしまう。
このダブルベッドはあの夜以来基本的にジンに解放されていて、一つしかないソファに大の男が2人でゆっくり寝られるわけもなく、つまりはほとんど眠れない日々が今日でもう1週間ほども続いているのだ。攻撃するのは勘弁して欲しい。
「しゅういち、ぷりん、れいぞうこ!」
嬉しそうに走って行ったジンに、やっと寝られると思ったのも束の間、再び眠りに落ちかけたところで、またもベチベチと顔面を叩かれる。
距離感がなくなってきたのはいいことだ。
この遠慮のなさがジンらしいともいえる。
が。
これを野放しにしている赤井はどうなんだ。
文句の一つも言ってやろうと身体を起こすと、降谷の腹に馬乗りになったジンが、コンビニの袋に入ったままのプリンを2つ、にこやかに突き出してきた。
買ってきたときから1つ減っているが、まさか赤井が先に食べたのだろうか?
などと考えていると、
「あむろ、あけて!」
もう一度、ずいっと突き出されるプリン。
「赤井に頼めばいいでしょう。少し寝かせてください……」
面倒くさいと隠そうともせずに言ったのに、ジンは容赦なく首を左右に振って拒否する。
「やだ」
ジンが否定の意思をはっきり示すことは珍しく、
「どうして」
と問えば、あっさりした返事が返ってきた。
「しゅういち、へたくそ」
降谷が買ってきたプリンは、カップの裏をぷっちんするタイプのものだ。
赤井の甘いもの嫌いが幼い頃からだとすると、彼はこのプリンをうまく皿に出すやり方など知らないだろう。
形が崩れたプリンでジンが満足するはずがない。
味は同じなのに。
「……開けたら、寝かせてくれます……?」
答えを半ば以上予測しつつも訊けば、
「だめ。いっしょにたべる」
と予想通りの答え。
これは……流石に、疲れる。
「……僕の分も食べていいですから、寝かせてください」
ジンが欲しているのは安室と一緒にデザートを食べること、ではなくて、安室の残したプリンなのは分かっているのだ。
とにかく、安眠を得るためには、ようやく引き下がった彼を腹の上からどかせ、プリンをぷっちんしてこなければならない。
こんなことならジンを餌付けしようなどと思うんじゃなかったとか、もっと与えやすいものにしておくべきだったとか、そもそも赤井が不器用なのが悪いとか、心の中で思いつく限りの悪態をつきながら備え付けのキッチンに向かう安室の後ろでは、ジンがいそいそとテーブルについていた。

 

***

あれから。
降谷に出て行かないと犯す、と大して怖くもない脅しをかけられた赤井は、ジンと再び東都水族館に来ていた。
アクアリウムへ向かう途中、何度もはぐれそうになるジンを探し出すのに彼の容姿は役にたったわけだが、手を握らせてもくれないので、そろそろ迷子ひもでも買おうかと検討したいところではある。
(自分から触れる分には抵抗もないようだが)
「ジン。勝手に動き回るなとあれほど……」
今度もようやく追いついた赤井に、
「しゅういち、あれ」
とジンが指さしたのは、ダーツのミニゲーム。
視線をたどると、どうやら景品のストラップが目当てらしい。
「いるか」
「欲しいのか?」
「じんと、しゅういちと、あむろの」
景品は50点で1つ、ということは、ワンゲームで3つか。
一般人なら考えないような計算をさらりとして、赤井はジンの前にかがむ。
「……分かった、3つだな。でも、ジン。ゲームしてる間に余所に行ったりするなよ」
こっくりと頷くジンに自分のズボンの裾を握らせて(それが一番賢いやり方だとこの3日で学んだ)、セーラースタイルのスタッフに1回分の料金を払うと、赤井は気負うでもなくダーツを構えた。

 

「すっげぇええ!」
「兄ちゃん、すげぇな!」
「あのお姉さんみたいでしたね」
「すごいすごーい!」
3本目の矢がブルズアイに的中して、電光掲示板が150の数字を示すと、背後で聞き慣れた騒がしい声があがった。
少年探偵団……今はコナンと哀を除く3人しかいないが、彼らも懲りずに東都水族館に来ていたらしい。
カランカランとスタッフが鐘を鳴らして
「本日の最高得点です~」
などと満面の笑みを浮かべている。
見事3つのストラップを選ぶ権利を与えられたジンは、嬉々として景品の下げられたボードに向かうかと思いきや、
「しゅういち」
と赤井のズボンの裾を引く。
「じんも」
「は?」
「じんもやる」
「……いや、それは……」
ジンに武器になるようなものはできるだけ持たせない。
降谷との暗黙のルールだ。
だから部屋ではナイフはおろかフォークさえ持たせないし、どうしても必要になった場合に備えて外出時には先の丸い幼児用のフォークを持ち歩いている。
だというのに、ダーツ?
勿論子供も扱うものだ、先端は丸くしてあるだろうが……、
「しゅういち、じんも」
しつこく言ってくるジンを
「駄目だ」
と突き放すと、とたんに背後から非難が巻き起こる。
「えーっ、お兄さんずるーい!」
「自分だけなんて大人げないぞ!」
「そうですよ。可哀想です。1回くらいやらせてあげたっていいじゃないですかぁ!」
子供達の声に通行人の視線が集まってきたことを悟り、極力なら目立ちたくない赤井は、仕方なくもう一回分の小銭を財布から取り出した。

結果。

ジンはあっさりとパーフェクトスコアを叩き出し、満足げな彼に、赤井は「凄いな」と認めたくもない賛辞を送ることになった。
ジンの暗殺者としての能力が失われていたのなら、どれだけよかっただろうか。
記憶がなくなっても、身体で覚えた技術は失わないとはこういうことか。
などと考えていると、耳元でスタッフが振る鐘の高い音が響いた。
「凄いねえ、君」
「じゃあ、景品のストラップを選んでね。お父さんのと合わせて、全部で6つ」
話しかけられたジンはというと、さっきまで平気な顔をしていたくせに、やはり他人に近寄られるのは嫌らしく、後ずさりして赤井の後ろに隠れてしまった。
「しゅういち」
蚊の鳴くような声で、助けを求めてくる。
「……しゅういちが、えらんで」
「自分で選ばなくていいのか?」
一応確かめると、頷きながら、顔を何度もズボンにすりつけてくる。
この3日、赤井は常にジンと行動していたが、彼にこれだけの変化が訪れたのは初めてのことだ。
爪を立てられて皺の寄ったズボン越しに、ジンの震えが伝わってくる。
「人混みが怖くなったなら、帰るか」
スイカを抱えたイルカは赤井にはどれも同じに見えた。
こんなことになったのも全て降谷のせいだ、と、彼への嫌がらせにピンクを6つ選び、ジンの手に持たせる。
降谷と約束した時間まではまだ一時間ほどあったが、ジンがこの様子では、ここに留めておくのは問題だろう。
「車に戻るぞ、ジン」
赤井の言葉に頷くジンの手の中で、貰ったばかりのイルカのストラップがカチャカチャと音を立てていた。

 

***

未だ震えの収まらないジンは、靴のまま助手席のシートに足を上げ、膝と腕で頭を抱えていた。
この姿で初めて目を覚ました時と同じ反応。
反射的な防御反応だ。
何かが彼の失った記憶に触れたのだろうか。
でも、何が。
不用意に触れることは躊躇われたが、放っておくこともできずに、せめてジンがこちらを見なくて探りあてられそうな位置に、手を置いてやる。
人肌を恋しがるくせに相手から触れられるのは嫌がるのだから、ジンにとってはそれが最善だと判断したのだ。
赤井が自分に危害を加えないことは、ジンも知っている。
やがて恐慌状態が去り、顔を上げられるようになったジンは、未だ震える手で赤井の手を握りしめた。
「……しゅう、いち……」
「大丈夫だ、ジン。俺はここにいる」
怯えさせないようにゆっくり握り返してやると、ようやく安心したのか、赤井の膝の上によじ登ってくる。
赤井に向き合う形で膝に乗ったジンは、しばらく居心地のいい場所を探そうとモゾモゾと動いていたが、やがて赤井の胸に体重を預けて両手をその背に回してきた。
かたく握られていたはずのピンクのイルカは、と見ると、助手席に散らばっている。
ジンの細い髪は、彼が身動きするたび、赤井の鼻先をくすぐっていく。
「しゅういち……」
涙混じりの声、火照った身体、抱きしめてくる細い腕、押しつけられた顔、熱く湿った吐息。
「……しゅういち……」
縋り付くその声に、思わずその小さな身体を抱きしめると、本当に幼い子供がいやいやをするように首を振った。
「……だめ」
か細い声で拒絶しながら、身体はますます密着させてくる。
「さわっちゃ、だめ……」
元は愛し合っていた相手だ。
愛していたのは自分だけかもしれないが、それならば、現在進行形で愛している。
そんな相手に性感帯に直接息があたる距離で囁かれれば、理性がどうにかなってしまいそうで、赤井はジンの幼さを自覚しようとますます強く抱きしめる。
「だったら、煽るのはやめてくれ。わざとやってるんだろう、ジン」
小さな身体にむかって、わざと心ない言葉を発せば、ジンは掠れた声で、
「……あおってない」
と否定する。
「やだよ、しゅういち。こわい……」
この子供は自分の言葉の意味を分かっているのだと知覚した瞬間、頭の中で熱いものが弾けた。
「は……、こんな姿勢で言われてもな……」
腕の中でぼろぼろと涙を流すジンの顔を、髪を掴んで上向かせると、身体をかがめて彼の呼吸を奪う。
ジンは、抵抗しなかった。
赤井にされるまま口の中を侵し尽くされながら、小さな舌で懸命に赤井の動きに応えようとする。
泣き疲れた後の幼い身体は短い時間で容易に酸欠を引き起こし、赤井がようやく彼の唇を開放する頃にはぐったりとしていたが、頬を軽く叩いて目を覚まさせると、ジンは自分から伸び上がって赤井の耳元に顔を近づけた。
「……子供相手に本気でサカるんじゃねぇよ、やなやつだなお前」
耳たぶに噛みつき、悪戯っぽい声で囁いてくるジンに、赤井は目を見開く。
さっきまでの舌足らずな子供の喋り方ではない、それは紛れもなくかつてのジンの口調だった。
「ジン、お前、いつ……、……んぅっ?」
不意打ちのキスに赤井の唇からくぐもった声が漏れると、ジンは勝ち誇ったような笑みを浮かべて、赤井の首筋に腕を絡める。
「エロいツラだな。我慢できないって顔だ」
くつくつと楽しげに喉の奥で笑うジンに、赤井も口元だけで微笑を返す。
「それは、同意と受け取っていいのか?」
半ば脅すように問えば、
「お楽しみは後にとっとくもんだぜ」
そう言いながらも、ジンはますます身体を密着させてくる。赤井の襟元から滑り込んできた小さな手の悪戯な動きは酷くでたらめではあったが、誘っているとしか思えなかった。
身体が次第に熱を帯びてくる。
「ひどいな、ここまできてお預けか? 俺としては、煽った責任をとって欲しいところだが」
ジンの頬に指先で触れ、欲望を隠さずその楽しげな表情をにらみつけると、まるで自分には何の責任もないとでも言うような、呆れ混じりの溜息が返ってきた。
遊ぶように赤井の肌を撫でていた手が、何の未練もなく、さらりと服の内から出ていく。
「そんなに俺が欲しいのか?」
爪先で背伸びして、ジンはわしゃわしゃと赤井の髪を撫でた。
「お前はもう少し冷静な判断が出来る奴だと思ってたぜ、ライ」
ジンの瞳が、赤井の瞳をじっと捕らえる。
「ここがどこか分かってんのか? 児童虐待で通報されるなんてのは、勘弁だからな」

 

​***


お互いろくに衣服を脱ぎもしないまま、埃くさいベッドに沈み込んでいた。
ジンは最初「服が汚れる」などと文句を言っていたが、「どうせ汚すことになる」という赤井の言葉には、子供っぽい仕草で頬を膨らませ、何も言い返さなかった。
彼だとて中身は大人の男なのだから、これからここで何が起きて、結果自分がどうなるか、想像出来ないはずがない。
人目を避けられる場所、という理由で選んだこの場所は、そういう意味でも役に立ちそうだった。
人は寄りつかないがライフラインは確保でき、万全のセキュリティまで備えられている。
その上、家主の少年には悪い気もするが、『子供時代』の普段着の二、三枚借りたところで、彼は文句も言わないだろう。どうせ山のようにあるそれらのほとんどには、袖を通しもしていないのだから。
ともあれ。
分かってはいても自尊心(プライド)との折り合いがつかないらしく、少々機嫌を損ねたジンは、無言で赤井のスラックスの前をくつろげる。
不覚にも染みの滲んでしまった下着を、ジンのその愛らしくつぶらな目でまじまじと見つめられ、珍しくも赤井の顔が羞恥に染まった。
当然、それを見逃すようなジンではなく。
「若い、な?」
「疑問系で言うな……!」
揶揄する口調で言われ、返す声が思わずうわずった。
両腕で、顔を覆う。
喉の奥がヒリリと痛んだ。
まずい、泣きそうだ。

 

一方、初めて目にする赤井のその態度に、ジンは完全に虚を突かれていた。
男の相手は初めてだと言いながらジンを押し倒したときも、あの方の気まぐれに付き合ってジンが赤井を組み敷いた時ですら、こんな反応を見せたりしなかったのだが。
「お前、昔はもっと余裕ぶってただろ?」
「いいから、もう、焦らすな……」
赤井は、半ば強請るような声で、ジンの手を自身の中心へと導く。
下着を押し上げるソレと赤井の顔を交互に見て、ジンは、ヒュッと短く喉を鳴らした。
彼が『こういった』訓練を受け始めたのは、少なくとも十代になってからだ。
当時だって自分には充分大きすぎるものを咥えさせられては身体が引きちぎれそうに痛んでいたのに、今の身体に赤井のモノを受け入れるとなると……、
とはいえ、まさか赤井をこの状態で放っておくわけにも……、
などと躊躇っていると、いい加減焦れたのか、身体ごと強く引き寄せられる。
「ジン……、早く……」
熱を帯びた声に急かされて、ジンは、ごくりと喉を鳴らした。
ぴちゃぴちゃとわざと音を立てて、目の前のソレを舌でなぞる。
胡座をかいている赤井の手で頭を押さえ込まれているので、ジンの狭い視界に見えるのは、男の肉欲だけだ。
その先端を口に含んで少し強めに歯を立てると、お仕置きだとでも言わんばかりに喉奥まで突き上げられて、呼吸が阻害される。
そのままがくがくと頭を揺さぶられて、半ば弾け飛んだ意識が最初に知覚したのは、逆流してくる胃液の臭い。
この身体の脆さを改めて自覚すれば、そこに生まれたものは、ずっと昔に意識の底に押し込めて、とうに忘れていたはずの、本能的な恐怖だった。
赤井は片手だけで易々とジンの動きを封じておいて、もう一方の手指で、具合を試すようにジンの後ろの蕾に侵入してくる。
男を知らない子供の身体だ。
人差し指一本の挿入だけで、全身が反り返る。
中で指が動く度に、全身を酷い痛みが走り回り、身体を支えている足から力が抜けそうになる。

ぐらぐらと揺れる身体はまるで自分の物ではないようで、自分の中の幼い子供が『もう許して』と、そう願うのを聞いた気がする。

『もう嫌だ、許して』
と、かつての自分が泣いている。
けれど、ジンはその声を無視した。
あれは別に赤井に向けられた言葉ではない。
だから、いいんだ。
危険だと告げる本能に目を背け、目の前のソレへと、舌で、指先で、唇で、奉仕を続ける。
やがて口に含みきれなくなったモノの先端を舌で押し戻すと、今度は赤井も素直に出て行ったが、息つく間もなく三本目の指が無理矢理後孔に挿入される。
ここに至って、ジンはようやく悲鳴をあげた。
絶叫。
嫌だ、痛い、気持ち悪い、抜け、やめろ。
しばらくぶりに解放された唇から本能のままに溢れ出た拒絶の言葉は、止めどなく流れ落ちる涙と、指にまとわりついた血液に彩られて悲痛さを増し、赤井を責めた。
火がついたように泣きじゃくるジンの後ろから、ずるりと指が引き抜かれる。
赤井の手がジンの両脇を掴んで、抱え上げた。
続く衝撃を予想して身を固めるジンを、赤井は自嘲的な苦笑を見せて、ベッドの端に下ろす。
「……赤井……?」
どういうことだ、と問いかけるジンを無視して、赤井は何もかも放り出したように後ろに倒れ込み、そのまま両腕で顔を覆ってしまった。
赤井の顔を隠す手指の隙間から、押し殺した低い嗚咽が漏れる。
「……あか、」
伸ばした手は乱暴に振り払われて、
「頼む。1人にしてくれ」
掠れた声で、そう請われた。
それは、ジンがこの身体になってから、赤井が初めて望んだことだった。
風呂とトイレ、それから夕食後に煙草を吸いに消える時を除けば、赤井は常にジンと行動を共にしていたのだ。
1人になるなとは飽きるほど言われてきたが、1人にしろと言われたことはなかった。
胸の奥がズクリと痛む。
「なあ、赤井。聞けよ」
「お前を傷つけるつもりはなかったんだ」
「あのな。だから、俺は」
(傷ついた、わけじゃない)
そう言おうとして、だが、実際に口から出たのは全く別の言葉だった。
「続けろよ。そのままじゃ、お前がキツいだろ」
「無理だ、お前を壊してしまう」
「大丈夫だ。俺はそう簡単に壊れねぇよ」
さっきまで大泣きしていたくせに言うセリフではないと自覚してはいたが、あれは子供特有の生理現象であって、つまり悪いのはこの身体であって、だからあれは自分の意思ではない。
そう言い聞かせると、ようやく赤井の手がこちらに伸びてきた。
「本当に、つらくないのか」
「お前がこれで満足するなら、いいさ」
「……嘘だろう。また泣いているくせに」
「生理現象だと言っただろ」
色気のない会話と痛いだけのセックスをして熱を冷ませば、夜の静けさが肌に痛い。
赤井の手を借りてシャワーを浴び、一息ついたところで、無造作に放り出されたままの赤井の携帯が鳴っていることに気がついた。
「心配性のママから電話みたいだぜ、お父さん」
借り物で少しだぶつくパジャマの一番上のボタンと格闘しながらジンがそう教えてやると、
「放っておけばいい」
赤井は、そうこともなげに答えて、ジンの長い銀髪を乾かしにかかる。
ドライヤーの熱と低く唸る音とがジンの疲労した身体に眠気を誘うが、それよりも、鳴り止む気配のないコール音が気にかかっていた。
緊急の用件だったらどうする気だ。
勿論、これが仕事の話なら、ジンに聞かせたくないのは分かるのだが。
だったらそもそもこちらの携帯に連絡を取ってきたりはしないだろう。
赤井がジンと共に行動していることは、承知しているはずなのだから。
つまり、結局この電話は。
(早く帰って来なさい、とでも言うんだろうな)
元はといえば、自分が追い出したくせに。
「無視してもいいが、後がなにかと厄介だろ。出ろよ」
そう促しても、赤井は携帯を見ようともしない。
「まだ、ジンの髪が乾いていない」
即答し、風に揺れるジンの髪を丹念に梳かす。
時折指先がジンの頬や首筋を掠めていく。
朝、安室に寝癖を直される時に比べると、少し力が強くて、痛い気もするが。
それでも赤井なりには優しくしているのだろう。
よく跳ねる赤井の髪を大人しくさせようと思うなら、それなりに力はいるに違いない。
ジンの方はというと、濡れたまま放っておいたくらいで癖がつくほど甘くないストレート。
そのあたりの感覚が、違ってくるのは当然だ。
だが。
もう十分すぎるほど指通りが良くなった髪をいつまでも梳かし続けている赤井に、
「そんなに俺に触れてたいのか?」
とからかう声を向ければ、赤井は、
「駄目ですか?」
そう、ライの口調で返してくる。
問いの形をとった、素直な要求。
ジンが駄目だと言えば、簡単に身を引くに違いないが……そもそも駄目だと言われることなど想定していない。
つくづく狡い甘え方だと思うが、赤井が不安定な自分を見せるのはジンが相手の時だけだ。
だから、拒絶しきれない。
「だったら、電話は俺が出る。お前は、好きなだけそうしてろ」

 

***


何十度目かのコールで、ようやく電話が繋がる。
降谷が目覚めた時には既に赤井との約束の時間はとっくに過ぎていて、連絡の1つも寄こさないまま、今は日付すら変わるかという時刻だ。
「赤井。こんな時間まで何を……、今どこにいるんです? ジンはもう寝る時間ですよ、まったく、もっと早く帰ってくるかと思って夕飯も作ったっていうのに……」
勢い込んで責め立てる声を遮ったのは、しかし、予想に反して幼い声だった。
『あむろ?』
「ジン?」
『じん』
「あなた、1人ですか? 赤井は?」
『んと……』
「近くにいるんでしょう? 代わってください」
『しゅういち、でんわ、あむろ。かわってって……』
一瞬ジンの声が遠くなり、
『無理だ、今忙しい』
と答える赤井の声が小さく聞こえる。
『でも、あむろが』
と言い募るジンに、普段の赤井ならここで折れるところなのだが、今日の彼は、言葉通り忙しいようだった。
『手が離せない。ジンが代わりに伝えてくれ』
『でも』
というやり取りの後で、携帯は再びジンの口元に戻ってきたらしい。
『ええとね、しゅういちがね、きょうはかえれそうにないからさきにねててもらえって……』
そこまで言って、ジンは不意に口を閉じた。
いや、携帯自体をどこかに押しつけたのか。
って、お……、……かぃ、……にかんが……、
酷い雑音の向こうで、ジンの声が途切れ途切れに聞こえてくるが、意味はとれない。
そのまま、数秒の沈黙があった。
「ジン?」
焦れて呼びかけると、
『あむろ、ごはん、なに?』
屈託のない明るい声が、無邪気に会話の方向をねじ曲げてくる。
「え? 今日の夕飯ですか? オムライスです」
『ぷりん、ある?』
「ありますけど……」
自分で帰ってこないと言ったところなのに、それを聞いてどうするつもりなのか。
と首をかしげている間に、ジンはあっさり会話の相手を変えてしまう。
電話が繋がっていることなど、お構いなしだ。
『しゅういち! じん、おなかすいた!』
『……だって、おむらいす……』
『やだ!』
『……じゃあ、ぱふぇ……』
赤井の声が聞こえないため、会話の内容は分かりづらいが、オムライスが食べたいと駄々をこねているらしい。
降谷はやれやれと肩をすくめた。
「ジン? 赤井が帰れないというなら仕事なんでしょう? 邪魔しちゃ駄目ですよ。そんなにオムライスが食べたいなら、あなただけでも迎えに行きますが、そこがどこかわかりますか?」
『おむかえ、いい。じん、ぱふぇたべる』
「こんな時間にパフェなんていけません。お腹壊しますよ」
『だいじょうぶだもん!』
その後しばらく食べる、駄目ですの押し問答が続き、頑として言うことを聞こうとしないジンに、降谷のほうが降参する。
普段ならこんな我の通し方はさせないのだが、こんな電話で赤井の邪魔をするのは躊躇われた。
「わかりました。歯はしっかり磨くんですよ。あなたのは、乳歯じゃないんですから。赤井に仕上げ磨きもして貰ってください。いいですか?」
聞いているのかいないのか分からない相手に並べ立てると、電話の向こうからクスクスと忍び笑う声がする。
『了解した。君ほど上手くはないかもしれんが、やってみよう』
「あ、赤井? 手が離せないんじゃ……」
『ああ。今ちょうど一区切りしたところだ。とはいえ、まだ片付けが残っていてな。安室君、すまないが今日は、』
「急な仕事なんでしょう? 構いませんよ。お互い様ってやつです。それより、明日は帰れそうですか? 幸い明日はオフですし、ジンが邪魔になるようならこちらで預かりますけど……」
勿論、赤井に何か思惑があってジンを伴った可能性はある。
だが、そうでないのなら。
赤井が仕事で出入りするような場所が、ジンにとって有益だとはとても思えない。
酒と煙草と危険と秘密、女と男、欲望と陰謀。
そのいずれか、あるいは全部。
降谷や赤井の棲む世界は、幼い子供の覗いていいような場所ではないはずだ。
「今からでも、ジンを迎えに行きましょうか?」
『すまないが、場所は教えられない』
「そうですか」
まあ、そういうこともあるだろう。
『ジンは大人しくしているから気にしなくていい。せっかくだから、君は今日くらいゆっくり寝てくれ』
「わかりました」
ジンが大人しくしているとはとても思えないが、一応は引き下がる。
『そうだな、明日は3人でどこかに出かけよう。勿論、君が疲れていなければの話だが』
赤井から提示された思いがけない誘いに、いつものように「誰があなたなんかと」と言いかけた口を押さえ、深く息を吸う。
赤井はただジンをのために言っているだけだ。
子供のためなら、少々気乗りしなくても付き合ってやるのが大人のつとめ、だから。
「考えておきます。そちらもあまり無理はしないでくださいね。あと、あまりジンを甘やかさないでください」
『君が言うなら、仰せのままに』
その言葉と共に強制的に終話され、降谷はソファに寝転がる。
(3人で……出かける?)
そんなことは、想像したこともなかった。
でも。
(悪くはない、きっと)
そう思っている自分がいるのも確かで。
そんなことを思うのは、きっと疲れているからだ。
だから、そう。
もう、早く眠ってしまおう。

 

***


こんな時間にパフェを食べたいと言い出したジンを連れて、赤井が向かったのは近所のダニーズ(ファミレス)だった。
ジンは最初自分で歩けると言い張ったのだが、数歩で身体の方が悲鳴をあげたため、今は大人しく赤井の腕に収まっている。
いわゆるお姫様抱っこのようなこの状態に文句を言わないのは、普通に抱きかかえられると尻が痛いというだけの話であって、本心では納得していないに違いない。
車を出しても良かったのだが、ただジンの温もりが手放しがたくて、こうして星明かりの下を歩いている。
「眠いなら、寝ていてもいいぞ」
時折「むー」とか「うー」とか可愛らしいぐずり声を出すジンは、赤井の言葉に応える代わり、
「便利だな、この身体」
と、やけに唐突に思える言葉を吐く。
「はぁ?」
思わず柄にもない声が出た。
ジンが何を言っているのか、理解が出来なくて。
この身体のせいで、さっきまで痛みしか感じない行為を強制されていたのに。
眉をひそめる赤井を見つめるジンの顔に、ニヤリと笑みが浮かぶ。
「この位置にいると、お前の本音がすぐ分かる。心臓は嘘をつけないからな」
「ホー……」
「疑うのか?」
「……いいや」
ジンならば、密着した相手の心音を読み取るくらいのことは出来るだろう思う。
そうでなくても、相手の感情を読むことにかけては天才的に上手いのだから。
赤井でさえ弱るときがあるなんて、他の誰が気付くだろう。
ジンにはいつだってあっさり見破られたが。
そんなことがあるから、精神的に弱っている時は、ついつい彼の手を欲してしまう自分がいる。
「あなたを疑うなんて、まさか」
本心から告げると、ジンは幼い顔をふわりと綻ばせて笑う。
「ジン。あなたはそうやって笑っていればいいんですよ。その方が、ずっといい」
「お前の好みか?」
「そうですよ。いけませんか?」
「悪くはねぇよ。それに、この角度から見るお前の顔も俺の好みだ」
「ははっ」
感情を隠さずに笑うと、ジンもまた笑う。
「お前のシケたツラなんて、とうに見飽きたと思ってたが……」
「おやおや、酷い認識ですね」
「いいだろ。それに……今のお前は、悪くない」
服の上から頬ずりしてくるジンに、赤井の鼓動は否応なく早まる。
「淫乱なボウヤですね。帰ったら、もう一度お楽しみといきましょうか?」
せめて口先だけは強気で迫ると、ジンは愉快そうに笑った後で、「さすがにそいつはキツい」と呟く。
「そういう意味で言ったんじゃないぞ、変態」
「あなたに言われるとは心外です」
「少なくとも、俺はこんな餓鬼を犯そうと思ったことはねぇな」
「あなたが悪い」
「俺のせいかよ。聞き捨てならねぇ」
「あなたが可愛いのがいけないんです」
「誰にでも言ってそうだな。バーボンとか」
「実際、彼は可愛いでしょう? あなたの目から見ても」
「そういう問題じゃねぇよ」
それは、2人の間にまだ何のわだかまりもなかった時のような会話。
懐かしくて、心地よくて、
それ以上に、胸が痛い。
「ジン」
「なんだ」
「本当に、よかったんですか。あんな」
「当たり前だ。嫌ならそう言ってる」
「でも」
「ああ……」
赤井が言わんとしていることを察するのは、それほど難しいことではない。
ジンはあっさりと、事実だけを告げる。
「この身体じゃ感じねぇよ、子供だからな」
「本当に? 誰が相手でも?」
「あぁ?」
(なんでこんなに必死なんだ、コイツは)
昔からそういう傾向はあったが、今日の赤井は以前に比べてもおかしかった。
これでは、まるで依存だ。
こんな子供相手に。
「お前な……。何が言いたいんだ」
はっきりしろ、と促すと、赤井は、泣きそうなのを無理やり引きつらせたような、そんな笑みを顔に浮かべる。
「あの方になら、その身体でも反応するんじゃないんですか?」
「お前、馬鹿か。殺すぞ」
「ジンのためなら馬鹿なこともしますよ。俺は」
「お前はあの方とは違うだろ。お前とは……」
……望んで繋がったのに。
……命じられてじゃなく。
……分かっていると思っていたのに。
……不安にさせたいわけじゃないのに。
言いたいことが多すぎて、言葉にならない。
「……お前とは、そんなんじゃねぇよ」
結局、ジンの口から出たのはそんな言葉だった。
「……なあ、赤井。話を聞けよ」
「嫌です」
「子供か」
「あなたの前ではね」
くだらない会話だと、自分でも思う。
こんなことに無駄に時間を費やす趣味はなかったはずだ。
それでも、今、伝えないといけないことがある。
だから。
「いいから、聞け。俺は、今のこの関係が嫌だとは思ってない。お前やバーボン……今は安室か、あいつと一緒に暮らしてくのもいいと思った。何も知らない振りして、幼い子供のままで、お前を秀一と呼んで。ずっと、そうやって、生きることが出来たらいい。柄じゃねぇ、分かってるよ。だが、本当にそう思ったんだ。でなきゃ、こんなところについてきたりしてない」
「笑うなよ、本音だ」
「嘘でも嬉しいです」
「お前な」
悲観的になるのもいい加減にしろ、と言いかけたが、今言うべきはそこではない。
「そろそろそれもゲームオーバーかもな。お前には悪いが、時間切れだ」
そう告げたジンを見る赤井の目は。
何もかも分かっている目だった。
分かっていながら、認めようとはしていない。
「何を……言ってるんです?」
「あの方に、見つかった」
「……ダーツの時ですか」
あのときのジンの反応は、ただ事ではなかった。
前後不覚の恐慌状態に陥って、赤井を困惑させた。
ジンも、そのことは覚えている。
苦々しく思いながらも、言葉を紡ぐ。
「……あの方が実際あの場にいたわけじゃねぇ、……と、思う。ただ、あの時……」
「知った顔でも?」
「……ああ」
あのとき揺り動かされたのは、一番近い恐怖の記憶だった。
焼けるような痛みと、血の臭いと、鉄の味。
睡眠も食事も与えられないまま、無慈悲な暴力に晒されていた、あの日からの数日間。
思い出した小さな身体は、抱えきれない感情に、素直に反応した。
赤井は、ジンの頬を伝う涙を指先でぬぐう。
赤ん坊をあやすように揺すられて、ジンの顔がカッと熱くなる。
「やめろ」
「だったら早く泣き止んでください」
「だからこれは」
「生理現象だと言うんでしょう。だとしても、あなたの泣き顔を見るのは辛い」
「ジン。組織と俺なら、組織をとりますか?」
「前にも言った。お前をとると」
「……あの方と俺なら?」
「そういうのを、愚問というんだ」
何度同じ問いを繰り返したところで、ジンには赤井が望む答えを返すことは出来ない。
「戻れば、俺は今度こそ殺されるだろうが」
「それでも、戻るんですか。あの方のもとに」
「あの方が望めば、な。俺はいつでもあの方のものでいなくちゃならん。それが『ジン』の……俺の存在意義だからな。あの方が死ねというなら、それに従う」
「行くなと言ったら?」
「言わないだろ? ライは優しいからな」
昔のように髪を撫でてやったら、赤井は安心するのだろうか。
そう考えてみたところで、今のジンには、黙り込んだその顔を、もどかしい思いで見ることしか出来ない。
「……昔」
数分後、ようやく話し出した赤井の声は、らしくもなく震えていた。
「昔、あなたと約束したのを覚えてますか」
「ああ」
何を、とは言わない。
何を、とは聞かない。
ただ、赤井の手が、切なげにジンの身体を引き寄せる。
約束を果たす日は、彼らの決別の日。
そう、分かっているから。

 

***


翌朝は、何事もなかったかのように、いつものホテルのいつもの部屋で目が覚めた。
隣で寝ていたはずの赤井はいつものようにソファにいるし、安室はテーブルに朝食を並べているところ。
昨夜のことなど現実にはなかったように、いつも通りだ。
全身の痛みさえなければ、夢だったと納得しそうなほどに。
「あむろ! じん、おきた!」
極力明るい声で呼びかけると、安室は手を止めてこちらにやってくる。
いつも通り、平和な朝だ。
「着替えましょうか。こっち向いてください」
そのまま自然な流れで安室の手に身を任せそうになって、慌ててその手を振り払ったものだから、安室はキョトンとした顔になる。
「どうか、しました?」
どうかしたもなにも、身体中につけられた昨日の痕を安室に見せるわけにはいかない。
そんなことをすれば確実に赤井はこの世から抹殺される。
「きょうは、しゅういちがやるの!」
「赤井はまだ寝ているでしょう?」
困った顔でおいでおいでと手招きされてほだされそうになるが、そうもいかず。
「おこす!」
「ちょ……、赤井は疲れて……って!」
安室の静止は聞こえないふりをして、赤井の腹の上に飛び乗る。
「っ!?」
思い切り急所めがけて降りかかってきた災難に、普段寝起きの悪い赤井も、咳き込みながら目を覚ます。
相変わらずの酷い寝癖だ。
「しゅういち、おきて! じん、きがえ!」
耳元にわざと大声で主張すると、機嫌の悪い目で睨まれた。
「しゅ、う……んんっ!?」
「…………おはよう」
ついいましがた熱烈なキスを浴びせたことに関してまるで記憶にないらしい赤井に、背後で安室が凄まじい表情をしているらしいことは、ジンでなくても分かる。
「あ、あ、赤井ィイイイ!」
「……どうかしたか、安室君」
「どうかしたかですって、あなたって人は何を考えてるんですか、ここは日本ですよ、アメリカじゃないんだ、わきまえろ腐れFBI」
自分も充分やることはやっているくせに、とジンは半ば呆れつつ思うが、この国では目覚めのキスなどという習慣は珍しい。
「何のことか分からんな。俺がなにかしたか? ジン」
寝惚けている時の癖のようなものなので、赤井は本気で安室が怒っている理由がわかっていないのだろう。
「ねえ、しゅういち、きがえ、てつだって」
「……、自分で出来るだろ……?」
「やだ! できない!」
確かに脱いだり着たりに支障はない(昨日だって自分で着替えたのだ)が、安室の目から隠れる壁は必要だ。
と思うのに、赤井は惰眠をむさぼろうとする。
さすがにムッとして、ジンはその頬を思い切り抓ってやった。
「わかった。ジン、あむろとおきがえする」
フン、と鼻を鳴らして
「あむろー!」
と呼べば、下から伸びてきた手に捕まる。
「手伝ってやるから、こっちにこい」
起き上がる気配もない男に抱き寄せられても仕方がないのだが。
「……しゅういち、おきた?」
「起きたとも」
「きがえ、てつだう?」
「喜んで」
「じゃあ、ちゃんとおきて」
今日は出かけると誰が言い出したんだったか、と思うが、一応、それは言わないでおいた。

 

***


「それで、今日はどこに行くんです?」
ジンの口周りを濡れタオルで拭きながら聞く降谷に、そういえば特にどこに行きたいかなどは考えていなかったな、これはしまった、などと思っていると、
「ぱんだ」
と、ジンがそう指定する。
「動物園ですか?」
「うん。あむろ、おべんとう、つくる?」
「そうですね。サンドイッチくらいなら」
どこへ行くかわからなかったこともあり、弁当の予定はしていなかったので、大した材料はないのだが……目を輝かせて言われると、断れない。
とはいえ、
「じん、おてつだいする」
という主張については却下せざるを得ない。
「駄目ですよ、刃物使いますから。ジンはあっちで赤井とテレビでも見ててください」
赤井がチャンネルを切り替えたのか、何やら騒がしい音を立て始めたテレビの方を指さして言う。
「ほら、仮面ヤイバーが始まるみたいですよ。いってらっしゃい」

 

***


「ジン、ほら、パンダさんですよ」
平日昼間だというのに、動物園は親子連れや学校行事で来ているらしい小学生で賑わっていた。
はぐれないよう手を引いて、ライオンや象、キリン、シマウマ……と子供が喜びそうな動物を中心に見て回ったのだが、ここにたどりつくまでに思いのほか時間がかかってしまった。
なにしろジンの身長は来園者の大半よりも低いので、最前列まで出ないと動物が見えない。
その上、今日は抱っこもおんぶも肩車も今のところ全て拒否されている。
「ぱんださん、どこー?」
「あそこ。見えますか?」
5歳くらいの幼稚園児の集団の後ろでぴょんぴょんと飛び跳ねるジンに、指で大体の場所を示してやると、そっちを見ようとはするのだが。
「みえない……」
と涙ぐまれ、安室は彼の目線までかがみ込む。
「もうちょっと待ちましょうか、そうしたら一番前でゆっくり見れますよ」
「うん。ぱんださん」
頷いて笑うジンの表情が、以前よりどこか苦しげに見えて。
「ジン」
「なあに?」
「楽しくないですか?」
「たのしいよ。なんで?」
首をかしげてみせるのも、なにか……、
「あむろ?」
「ああ、いえ、なんでもありませんよ」
ぽんぽんとジンの頭を撫でて、ようやく空いてきたガラスの前に押し出してやる。
「あ、ほら。見えたでしょう? あそこにいる」
「どれ?」
「あれです、白と黒の」
「うごかないよ?」
「お昼寝してるんですよ」
「ふうん」
気のない返事に、やはり楽しくないのだろうか、などと安室はやきもきする。
普段ジンと出かけないだけに、これが通常の反応なのかどうなのか、判断出来ないのだ。
「赤井」
「なんだ?」
「ジンはいつもこんな感じですか?」
「ああ、疲れてきただけだろう。もしくは退屈してきたか。子供は飽きっぽいからな」
赤井はそう言って、ジンを後ろから抱き上げる。
「ジン。もう疲れたのなら、次はあっちに行ってみようか」
赤井にそう言って連れて行かれたのは、動物園に併設されたミニ遊園地。
……の中の、ショーステージだった。
赤井がジンを膝にのせて最前列中央に陣取り、安室がその隣に座る。
開演前だからといってもそれなりに客数が入っている中でその位置を確保できるのは2人の顔のおかげ以外の何物でもない。
「日本のヒーローショーは見たことがなくてな。一度見たいと思ってたんだ」
「一応言っておきますが、対象年齢は小学生以下のお子様ですよ」
「それがどうかしたか? 男なら一度はヒーローに憧れるものだろう? なあ、ジン」
「……ん……」
赤井に話しかけられたジンは、眠いのか、赤井の膝の上でしきりに瞼を擦っている。
これなら他の子供達に場所を譲ってやったほうがいいのでは、と思うのだが。
などと思っているうちにショーは始まり、子供達の歓声やら悲鳴やらでジンも目が覚めてきたらしい。
赤井がジンの手を掴んでステージに向かって振っているのが気になるが……このFBIが実はヒーローショー好きの子供っぽい性格だったからといっても所詮降谷には関係ない話……。
ステージではショーが既に佳境に入り、怪人に捕まった被害者役の少女がキャーキャーと騒いでいる。
子供達の声もだんだんやかましく……、
と思っていると、ステージ進行を務めていた女性が、こちらに真っ直ぐ向かってくる。
「ぼくぅー。大きい声で、『助けて、仮面ヤイバー』って呼んでみようかぁー」
などと、甘ったるい声で話しかけられているのは、紛れもなく赤井に抱かれているジンなのだが。
「ぅ……? ……じん?」
本人は、自分に何が起こっているのか分からない様子だった。
声からしても、寝惚けている。
ただし赤井はやけに嬉しそうで、
「良かったな。滅多にないチャンスだぞ」
とジンの頭を撫でまわしていた。
「早くヤイバーを呼ばないと、こわぁい怪人があの子を食べちゃうぞー?」
「やだ……」
「じゃあ、大きい声でヤイバーを呼んでみようねー」
「やだ!」
「なぜだ? 良いじゃないか。何も照れることはないだろう」
「うー……」
進行の女性も、ぐずぐず言い続けているのだから相手を変えればいいのに、どうしてもジンに言わせたいらしい。
まあ、目だつ容姿であれだけ手を振っていれば仕方ないが。
「じゃあ、パパと一緒に呼んでみようか!」
「しゅういちと……?」
パパと言われてあっさりジンが赤井のことだと断定したことに、安室が思わず吹き出すと、ジンの目が容赦なく彼を捕らえた。
どう見ても、とてつもなく不機嫌になっている。
「あむろも、いっしょ」
「いいですよ。一緒に呼んでみましょうか。ね」
慌ててご機嫌取りに走るのは、余計な面倒ごとを起こしたくないからで。
「じゃあ、お兄ちゃんも一緒にどうぞ」
と差し出されたマイクに、すぅっと息を吸い込む。
「さぁ、会場のみんなも、大きい声でヤイバーを応援してね! せぇーの!」

「たすけてー! かめんやいばー!」

 

***


ヒーローショーが終わって誰もいなくなったステージで、ジンはぐずぐず言いながら赤井の腹を蹴り続けている。
見かねた安室がショーが終わってすぐ靴を脱がせたので、痛くはないのだろうが、このままずっとここに座っていても仕方ない。
「ジン。いい加減機嫌直してください」
「や。しゅういち、きらい」
「だったら、抱っこ代わりましょうか?」
「……やだ」
「どっちなんです」
「じん、じぶんであるく」
ジンは、だから靴を返せと手を伸ばすが、あいにく紐靴なので、ジン1人では無理だ。
赤井か安室が履かせてやらなければいけないのだが、
「だそうですよ、赤井。下ろしてあげたらどうです?」
と安室が言っても、赤井は首を横に振るだけだ。
「冗談だろう? これ以上服に靴型をつけられてはたまらん。まだおろしたてで3回しか着てないんだぞ」
「あなたの場合、自業自得だと思いますけどね」
推定4、5歳の子供と同レベルで喧嘩をするなと目線で訴えると、赤井はふっと笑って肩をすくめた。
「まあまあ、安室君。ジンも少し拗ねているだけだから、放っておいてもすぐに機嫌は……ああ、ジン、アイス食べるか?」

 

***


あいす、あいすと引っ張られて、きっと明日には赤井のシャツは襟が伸びているだろう。
その後も、案の定チョコレートまみれの手で触られて、大きな染みが出来ているし。
大人しく歩かせた方がよかったのではないだろうか。
と思いながら歩いているうちに、ふと、目にとまったものは。
「あっ、ほら、ジン。あそこにパンダさんがいますよ!」
昔ながらの遊園地でよく見かけたコイン式のパンダの乗り物だった。
「ぱんださん?」
「ほら、あれ。乗ってみますか?」
「うん! のる!」
「うさぎさんもいますけど、どっちにします?」
「あれ! ぱんだしゃん!」
ジンが元気よく宣言すると、とたんに赤井が吹き出す。
確かにジンが噛むのは珍しいが、子供なのだからそれくらい無視してやれば良いものを。
案の定、ジンは、真っ赤になるし、
「わらっちゃだめ! ちょっとまちがえただけだもん! しゅういち、きらい!」
と怒り出す。
「いーーーーーーっだ!」
両手指まで使うそのポーズを教えたのは赤井か?
などと考えていられたのも一瞬のこと。
赤井が無言で頬を抓りあげたものだから、ジンが大人しく黙っているわけもなく。
「やーーーー!」
と叫んで、じたばた暴れ出した。
「ばか! きらい! あっちいけ!」
「ジン、そんなに怒らないで。ほらほら、パンダさんに乗るんでしょう?」
暴れているジンを赤井から抱き取ってレトロな玩具にのせ、百円玉を入れてやると、ところどころ塗装のはげかけたパンダは、ピポーパポーと音楽を鳴らしながら動き始める。
ゆっくり遠ざかっていくその背中を見つめて、降谷はふっと息をついた。
傍らの赤井にもたれかかる。
「なんだかんだ言って、楽しんでるんですかね」
「うん?」
「なんだか、僕たちに気を遣って楽しんでる振りをしてるみたいな」
そんな気がするんですよ、と漏らせば、
「まさか」
そんなことを考えていたのかい?
などと言われてしまう。
が。
「ジンは昔から優しいじゃないですか。だから、ちょっと。わがまま言ってるように見えても、それがあの子の本当の望みなのかなって、疑ってしまって……」
言いつのると、不意に肩を抱き寄せられた。
視界を、掌でふさがれる。
「それに気付かない振りをしてやるのも、優しさだろう? 安室君」
「ジンが……あの子が知らなかった世界を、色々見せてあげたいって……思うんですけど。お節介だったらどうしようって……」
「君は、若いな」
「お兄ちゃん、ですからね……。パパには勝てませんよ」
ふはっ。
二人同時に吹き出して。
今はまだ穏やかな時間を、こうして……。
「あむろ! あのね、じんね、つぎ、」
「ジン! 靴!」
「あ」
「もう。しょうがない子ですね、あなたは」
靴下のままで駆け戻ってきたジンを叱ったり、
「ほら、いらっしゃい」
と抱き上げて、その可愛い笑顔にほだされてみたり。
「さあ、次はどこに行くんですか?」
「んとね、あっち!」
「あっち?」
「うさぎさん、いた! じん、だっこする!」
「じゃあ、行ってみましょうか」
「うん!」
こんな時間が永遠に続けば、なんて。
夢のような話だけれど。
駆けていくジンの背中を赤井と2人で追いながら、願ってしまうのは、
これは、エゴなのだろうか。

 

***


その日は、目覚めからしていつもとは違っていた。
降谷は既に出かけていて、テーブルの上にラップに包まれた朝食が2人分。
ジンはまだパジャマ姿のままで、ベッドの上にいる。
つまり降谷は、ジンが目覚める前に出て行ったらしい。
目が覚めたのは携帯が鳴っているせいだった。
非通知からの着信。
「…………」
通話状態にして、しばらく無言でいると。
『やあ、ライ』
と、どこか作り物めいた声が聞こえてくる。
少年のような、少女のような、機械を通したような、つかみ所のない声だ。
聞いたことのない声だったが、赤井は反射的に身を固める。
彼をライと呼ぶのは組織の人間しかいない。
そして、恐らくこの電話の相手は。
『君が元気そうで何よりだよ。随分と世話になった礼はさせて貰わないといけないからね』
「ライ? 誰ですか、それは」
『誤魔化しても無駄だよ、裏切り者の諸星大。いや、本名は赤井秀一だったかな?』
「…………」
そこまで知っている人間なら、幹部以上。
いや……、
間違いなく、これは。
キツく目を閉じて、覚悟を決める。
(あの方、が、とうとう動き出したのか)
『さあ、ライ。私の可愛い人形(ジン)に代わっておくれ。君と一緒にいるのは、もう分かっているんだ。隠すとためにならないよ』
ザラザラと苛立たせる声に、唇を噛む。
「ジンに、何の用だ」
『あの子が私から逃げた理由を聞かせて貰おうと思ってね。せっかくあんなに可愛がってあげたのに』
口の中で血の味がひろがる、気がする。
「あんたが傷つけるからだろう。暴力で人は支配できんよ。そんな関係は、いずれ破綻する」
『それは君自身が確かめると良い。いいから、ジンを出しなさい』
以前は巨大な組織をまとめ上げていた帝王だとしても、その片翼はもがれ、残りの翼も傷ついて使い物にならない。
爪は折れて用をなさず、巨大な闇夜の烏は、今や死を待つだけの存在。
だというのに、ただひとつその身に残った嘴は、どうやってもジンを攫っていくのだろう。
「……拒否する、と、言ったら?」
『君のいるホテルごと、そのお綺麗な顔を吹き飛ばすことにしようか。私はそれで構わない』
「ジンはどうする」
『裏切り者には死を。それが私のやり方だ。君なら知っていると思ったがね』
チッ。
荒々しく舌打ちする赤井。
ベッドの上のジンが、ぱちくりと目を瞬かせて、彼を見ていた。

 

***


『やあ。おはよう、ジン』
赤井から無言で手渡された携帯は、相手の第一声と共にジンの手から滑り落ちる。
『ジン? さあ、声を聞かせておくれ』
「お……おはよう、ございます」
『おやおや、随分と可愛らしい声だ。君と初めて会った頃を思い出す』
「……そう、ですか」
自分が組織に飼われだしたのは、そんなに幼い頃だっただろうか。
もう少し年長になっていた気もするが、記憶がぼやけて思い出せない。
『ジン。君がライやバーボンに飼い殺しにされるなど、私が許すと思うかい?』
「いいえ……」
それを許すのなら、そもそもこんな電話はかかってこない。
だから、きっと。
『戻っておいで、私の可愛い子。今夜はライで乾杯といきたいところだけれど、勿論、用意しておくれだね、ジン?』
ライの命で、乾杯を。
ごくり、と喉が鳴る。
「……仰せのままに」
会話が聞こえているはずの赤井を盗み見ても、表情は読み取れない。
ギリ、と、噛み合う奥歯が鳴る。
『以前の君なら、喜んで、と言ったところだけれど、まさか、情が移ったのかい?』
「…………」
そうだ、といえば、どうするだろうか。
あるいは、ちがう、といえば。
あらゆる可能性を頭の中で巡らせて、けれど結局は何も言えなかった。
声の主が、冷たく笑う。
『それならそれで構わない。君の苦しむ顔が見られないようでは面白くないからね。裏切りの罰は受けてもらわないと』
『ああ、でも』
『これだけは覚えておいで。君は私のものだ。いついかなる時も』
「……分かっています」
ふつり、と、糸を切るように。
その人の言葉は、いとも簡単にジンに繋がる絆を断ち切っていく。
いついかなる時も、ひどく、無慈悲に。

 

***


「悪いな、赤井。家族ごっこはお終いだ」
「そうか」
「とはいえ、お前には世話になったからな。1分だけくれてやる。そこからは狩りの時間だ。せいぜい全力で逃げるんだな。神への祈りは済ませておけよ」
相変わらず、ジンは獲物を狩る際に、酷く饒舌になる。
自然界では生き残れないであろう、殺すためだけに生きる猟犬。
けれど、それだけに、純粋で美しいと思える。
「祈ることなど思い浮かばんよ。それより今は、お前の顔を見ていたい」
できる限り長く、その顔を目に焼き付けていたい。
それは本心からの願い。
とはいえ、こんなところで殺される気もないが……。
と思ったところで、ジンの目が時計へと走る。
「あと5秒だぜ。逃げろよ。つまらねぇだろ?」
「わかった、そうしよう」
言った瞬間。
赤井の身体は窓の外へと飛び出していた。
接地の勢いで、第一歩目を踏み出し、駆ける。
部屋があるのは5階。
ジンが全力で階段を駆け下りてきたとしても……、
だが、頭を駆け抜ける0.1秒単位のシミュレーションは、ジンの次の行動によってあっけなく砕かれた。
「おいおいおいおい、寒い冗談はよせ!」
自分の身長の何倍もの高さにある窓枠に、彼は、ジンは、躊躇いなく足をかけていた。
いつもの彼の身体能力なら、あの高さから飛び降りるのはわけのないこと。
だが、今の彼にとっては。
「よせ! ジン!」
叫ぶと同時に、ジンが窓枠を蹴った。

***


チッ。
バランスを崩しながら落下する小さな体に向かって、全力で駆けもどる。
腕を伸ばす。
後3歩。
2歩。
足がイカレそうなほど、地面を強く蹴る。
腕を伸ばす。
できる限り遠くへ。
あと……、
……1歩!
「……ふぅ」
ジンの体を抱きとめて安堵したのもつかの間、脇腹に冷たいものを押しつけられた。
「甘いな、ライ」
「!!」
ジンの手に握られているのは、子供用はさみ。
電話が鳴るまでは自分の領域であるダブルベッドの上で暇をもてあまして遊んでいたので、手近なものがそれだったのだろう。
愛用のべレッタは最初から持っていなかったし、赤井や降谷の私物にしても、直接武器になりそうなものをジンの周囲に放置するほど間抜けはしない。
様にならないことこの上ないが……、
どちらにしても物騒なことには変わりがない。
ジンならば、こんなものでも人の命を奪うことは出来るはずだ。
ジンの目が細くなる。
「もう、さよならのじか……」
最後まで言わせる隙は与えなかった。
赤井の手刀は正確に首の後ろの急所を捕らえる。
カラン、と音を立てて、アスファルトに転がった『凶器』に、苦笑する。
「悪いな、ジン。少し眠っていてもらうぞ」
流石に、こんなもので殺されたくはないからな。
言い終える間もなく、銃弾が頬を掠めていく。
どこかから狙撃されている。
こちらの腕の中にジンがいようがいまいが、構わないということか。
「クソッ」
救いは、狙撃手の腕が悪いことくらいだ。
コルンレベルの狙撃手に狙われていれば、間違いなく初弾で死んでいた。
「お前の言うように、神に祈っておけば良かったかもしれんな!」
舌打ちと共に、赤井は再び走り出す。
あらゆる路地をでたらめに駆け抜けて。

 

***


「起きたか、ジン」
「……赤井……」
利き手を柱に手錠で繋がれているのがお気に召さないのだろうが……あの状態のジンを自由にしておくのは流石に物騒だ。
銃やナイフなどの武器を持たせていなくても、ジンが『あの方』の命令で動いているのならば、あらゆる手段で赤井を殺そうとするはずだし……一般人を巻き込まないだとか、人目を避けるだとかいうことも綺麗さっぱり忘れているようだったのだから。
それでも、彼と最後に話をしたいと望んだ自分は、どれほど愚かなのか。
「ジン。俺を殺したいか?」
真っ直ぐに目を見て、問いかける。
躊躇いなく肯定するジンの目には、もう、赤井の死しか映らないのだろう。
赤井の死が、あの方に続く唯一の糸。
ならば。
「チャンスは一度きりだ、ジン」
あの日から、
ジンと深く繋がったあの一番初めの夜から、
ずっとこの瞬間を望んでいたのだと言えば、ジンは驚くだろうか。
ずっと待っていた。
誰にも邪魔をされない場所で、ジンの手で、息の根を止めて貰えるその瞬間を。
だから。
ジンの手に、携行していた銃を握らせる。
利き手でない手で、慣れない子供の身体で、ジンが赤井に致命傷を与えられる可能性はゼロに等しいが。
「俺を殺したいのなら、上手く心臓(ここ)を狙え」
ジンの手をとって、自らの拍動の上へと、冷たい鉄の塊を導く。
「……赤井」
「お前に殺されるなら、本望だ」
「…………」
「ジン。もう一度、祈る時間をくれ。地獄でお前に会えるように」
何人もの人間を殺してきた。
罪の深さなど、問題にもせず。
今さら神に祈ることなどない。
だが、願わくは。
噛みつくように口づけて、そのままジンの呼吸の全てを奪い取る。
「ん……、ぅう……」
絡め合わせた舌の先で、声もなく、ただ一言『好きだ』と。
そう言ってから離れた赤井の唇をもう一度強請るように、ジンが薄く口を開いたその唇の隙間から、落とし込むのは、最後の願い。

「さあ、今度こそ、さよならの時間だ。仕留め損ねるなよ、俺の宿敵さん(エンジェル)」

ごくりと、ジンの喉が上下する。
変化は予想以上に急激だった。
体がぐらぐらと揺れ始め、蒸発する汗が湯気のように幼い体を包み込む。
骨の軋む音、張り裂けそうなほどの心臓の脈動。
「ぁ、かぃ……あかい、……しゅういち、やだ、いたい、あつい、あつい、たすけて、しゅうっ……」
赤井にしがみついて泣き叫びながらも、押しつけた銃口を下に向けることはしないジンが、堪らなく愛おしかった。
「大丈夫だ、ジン。じきにママが迎えが来る。それで、なにもかも終わるさ……この悪夢も、な」
乱れた髪を右手で撫でてやりながら、震えるジンの右手に自分の手を添え、ゆっくりと力をかけていく。
「あ、くむ……?」
「そう、これは夢だ……起きる頃には、全部夢になってる。だから」
「!」 
「さよならだ、ジン……」
ズン、と、身体を衝撃が突き抜けていく。
『ライ』の血が、ジンの身体を許しの色に染めていく。
ジンは、その身体が傾いでいくのを小さな腕で抱き留めたまま、全身を貫く痛みの中で、赤井秀一の名を呼び続けていた。

 

​***


降谷がその場に到着したのは、30分ほど後のことだった。
赤井からのメールに気づいたあと、道交法など完全に無視して、全力で飛んできたのだ。
だが。
最初に目に入ったのは、破れてボロボロになった血塗れの服。
左手を手錠で繋がれている、男の姿。
ジンだと認識するのに、数秒を要した。
それほどまでに、小さなジンの存在が大きくなっていたことは、降谷を戸惑わせた。
ジンは、不器用なはずの右手に銃を握って、赤井の身体を抱くようにして倒れている。
赤井の、血に染まった身体を。
「赤井!」
駆け寄って、呼吸を、脈を、あらゆる生の可能性を探る。
それでも、
いや、そうすることで余計に、現実は非情な事実を突きつけてくる。
「勝手に死ぬなんて、僕は許してない!」
「起きろよ!」
「こんなのはずるい!」
「また僕だけ置いて行かれるのか!?」
「赤井! 赤井! 返事しろ!!」
「お前は僕のものだ! 僕のために生きなきゃいけない存在だ! そうだろ、赤井!! こんなのは……」
動かない身体を揺さぶる。
時を止めた心臓の上から、拳を叩きつける。
何度も、何度も。
(こんなのは、許さない。許すもんか)
「起きろ、起きろ、起きろ……!」
「どうせまた僕をだまそうとしてるんだろ」
「お前が僕より先に死ぬわけないんだ。起きろ、起きろよ赤井秀一ィイイイ!」
絶叫が、煩いほどに響く中で。
「あ、むろ……」
不意に、弱々しい声が、降谷の袖を引いた。
「やめろ。そいつは、もう、死んでる」
「ジン……?」
「そうだ、ジン! あなた、怪我は!?」
弾かれたように、今度はジンの身体へ手を伸ばす。
「ねぇよ。こいつは、全部、そいつの血だ」
「どうして、こんなことに……」
言いかけて、ジンの口調がもう幼い子供のそれではないことに、ようやく気づく。
体も、なにもかも。
全てが、過去へと巻き戻ったかのようだった。
そこへ。
鳴り響く、携帯の着信音。
もう耳慣れた、赤井のスマホの音だ。
ジンの手が、簡単にロックを解除して、
『何をしているのかな、ジン。この期に及んで怖じ気づいたのかい? せっかくだから、バーボンの死に顔も拝ませておくれ』
赤井のそばに投げ出されたその電話から、無慈悲な声が流れ出た。
「……ジン、まさか……」
数日前から感じていた違和感の正体が、急に現実の色を伴って目の前に突きつけられる。
「まさか? おいおい、笑わせてくれるなよ。俺とお前らがいつから仲間になった?」
すっ、と。
鈍い鉄の穴が真っ直ぐ降谷に向けられる。
真っ黒な、それは。
まるで、底のない落とし穴。
「あばよ、バーボン。地獄で会おうぜ」
「クソッ、クソッ、クソォオオオオ……!」
ジンと降谷は、互いの額に銃口を向け合って、睨み合う。
引き金を引く相手の指の動きが、互いの目にはっきりと映し出されて。
やがて、一度きり、銃声が響く。

鮮やかな緋色が、宵闇の黒を彩るように、静けさの中、大輪の花を開かせた。

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